何かを得ることは同時に何かを失うことでもある

今日受験する大学の話をしていた時にばあちゃんの顔見てて思ったことです。


ばあちゃんねぇ、大学の事話してる時にたまに岡大に行ってほしげなことをぼそっと言うんですよねぇ。

その度に、センター死んだから無理だよとか、岡大よりまだ○○大の(もちろん県外)の方が確実だよとか言うんだけど


でもさぁ、今日ごはん食べてるときにふとばあちゃんの顔見てて、ああ、もしかしたらばあちゃんの死に目に会えなくなることもあるのかも知れないなぁと思ったら自分のしたい事を追って外に出ていくことが本当に正しいのかなとも思った。


まあ僕は外孫の癖に初孫だからばあちゃんにはそりゃあ可愛がられた訳ですよ(笑)

だから、僕がいなくなったらばあちゃんさみしがるのはわかってる

いとこたちが来年になったら岡山に帰ってくるだろうけど、そんなんじゃ寂しさ埋まらないだろうってのはわかってる。


妹ですらばあちゃんの寂しさは埋められないかもしれない。
たぶん、こはるっち、そーたくん含めて6人束になっても僕1人に勝てないのは僕自身が一番わかってることです。


そもそも10年前、無勉で補欠で入った追手門。
無勉であるが故に不完全燃焼感すげーあった訳ですよ。

それが20代中ずっと消えなくて、ずっと大学への憧れがあった。
だから、ずっとこっそり数学の問題集とか図書館で借りて勉強してた訳で。


今、僕には10年前憧れた大学よりさらに上の大学の合格通知がもう少し頑張れば手に入るかもしれないってとこまで来てますよね。

受かれば10年分の思いにようやく終止符を打つことができます。


そして新たに大学生となり、今度は自分の学びたい勉強を出来る。


ただ、その上で失うものもそりゃああると思います。

そして気づくこともたくさんあるでしょう。


全然関係ないけど、ばあちゃんの姉妹、もうみんな80代になったみたい。
大叔母ですらもう80歳だそうな。

大伯母は来年90だよ(笑)。


もうみんなそんな歳なんだ。


もし、春から大学生になれたら

今度は面倒くさくてもばあちゃんに毎日電話してあげようかな(笑)?
追手門のときはなんか鬱陶しくて、3年目に毎日電話するのをやめてって言ったけど、せっかく外に出してくれるんだから、それぐらいはするのがせめてものばあちゃん孝行でしょうかねぇ。